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野球をサンプルとする日本文化の社会学的考察

【6:7】゛野球゛をサンプルとする日本文化の社会学的考察

 

1名無しさん@おーぷん:2014/09/28(日)17:07:55 ID:KEZwfFW1j

先程、泥縄式に即興的にエッセー風論考を書いたので、それを叩き台に世相の変遷をサンプルとする考察を進めたい。

私の即興小論文は一応、サンプリングとして、野球を採用しているが、論考対象はそれに拘らず、広く、スポーツ一般で良いと思う。



2名無しさん@おーぷん:2014/09/28(日)17:08:50 ID:KEZwfFW1j

野球文化階級論 1

この全6章にわたるミニ論文は日本の野球文化の衰退の原因の考察である。

日本に於ける野球文化は明治の中期、アメリカ人宣教師から旧制高等学校(現在の東京大学京都大学の教養課程)の学生に伝わった、とされる。やがて、早稲田、慶応等の私立の大学にも広普及し、六大学連盟が結成された。

旧制中等学校(現在の高校)への普及はやや遅れてであったが、大正時代には甲子園で全国大会が開催されるほどの人気スポーツとなった。

東京六大学リーグ戦と甲子園の旧制中等学校の全国大会は共に野球文化の中心、華であった。これの意味する所は日本の野球は学生スポーツとして、受け容れられ、発展した、と言う事である。

3名無しさん@おーぷん:2014/09/28(日)17:09:54 ID:KEZwfFW1j

野球文化階級論 2

学生スポーツとして普及を見た野球の担い手は東大生や早稲田、慶応の現役の学生であった訳だが、当時の日本国家の教育予算、及び、国民個人会計の財政事情は戦後のそれと異なっていた。学校の総数自体、限定されており、旧制中等学校への進学率は二割未満であった。激しい受験競争を伴っていたのである。

激しい受験競争に勝ち残ったのは旧士族、地方の素封家たちであった。当初、野球を愛好したのは受験競争の選抜に勝ち残った旧士族や地方の豪農、造り酒屋、新興産業資本家と言った富裕階層、もしくは(貧しくとも)前時代の支配階層であった家系の子弟たちだったのである。国民はそれらのエリートの子弟のスポーツの場での恰も真剣で立ち合うが如き競い合いに観衆として、熱狂したのである。

4名無しさん@おーぷん:2014/09/28(日)17:11:30 ID:KEZwfFW1j

野球文化階級論 3

戦前、中等学校への進学率は18%であった。中等学校への進学は広く、国民の憧れであり、今日の大卒以上の希少性を認知されていたのである。野球はそうしたエリートの遊ぶ競技であった(厳密に申すなら、野球に限らず、当時のアマチュアスポーツ全般がそうであったが)。敷衍するなら、我々が゛体育会系気質゛と呼ぶ所の日本独特の蛮風は侍階級が歴史的に継承して来たバーバリズムであったのである。

故に、初期の野球人は旧士族階級出身や地方の素封家出身者が圧倒的に多かったのである。そもそも、東京六大学の何れかに進学するには旧制中等学校に入学しなければならないが、激しい受験競争に勝ち残るのは確率論的に偏差の法則が作動し、上記の家系の者たち以外は淘汰されたのである。

我々の記憶に残る往古のプロ野球の名選手もまた、そうであったのだ。

5名無しさん@おーぷん:2014/09/28(日)17:14:26 ID:KEZwfFW1j

野球文化階級論 4

所が、戦後のアメリカ軍占領以降、我が国の国民意識は大きく変容を遂げ、旧士族の家系の者の階級的アイデンティティー、価値観は民主主義的価値観によって優先順位を完全に置換されてしまったのである。

今日のプロ野球人気の下降は国民に浸透した民主主義の価値観が旧士族階級のアイデンティティーに取って換わった所産であるのは明らかである。士族の野球人の代表的な例証は広岡達郎氏である。氏の毅然たる言動、振る舞いは野球の魅力のコアをなす武士的精神性を体現している。

時系列は異なるが、同じ早稲田の氏の先輩である三原脩氏も野球の魅力の源動性を具現化させた指導者の一人であった。和歌山中ー立教出身の西本幸雄氏も同様の指導者であろう。

6名無しさん@おーぷん:2014/09/28(日)17:16:34 ID:KEZwfFW1j

野球文化階級論 5

1960年代半ば迄は、戦前に教育を受けた世代が現役選手としてプレーしていた。1980年代初期までは野球界自体に士族的文化の余韻が生きていた。だが、1982年、統計的に戦後生まれの日本人と戦前生まれの日本人の人口比が逆転すると、やがて、日本の野球文化そのものへの士族的価値観のアイデンティティーは戦後民主主義教育の影響下で人となりを形成した若い世代によって新陳代謝的に入れ替わり、広岡達郎氏や三原脩西本幸雄氏の体現するインテリジェンスのある毅然たる指導者像は望んでも得られない、後継者不在の絶滅希少品種化の道を辿る事となったのである。

それに平仄を合わせるかのように国民の野球観、否、野球に求める要求、観賞能力の幅自体も著しく変質し、専門誌、スポーツ紙の見出し、記事内容の゛低学歴化゛、幼児退行的大衆迎合性が顕著となり、総じて、野球文化そのものの激烈な低俗化に繋がったのである。

7名無しさん@おーぷん:2014/09/28(日)17:18:59 ID:KEZwfFW1j

野球文化階級論 6

野球に限らず、日本のスポーツ文化のこの大衆迎合的低教養化、愚民化の趨勢はスポーツの魅力を致命的に棄損している。プレーヤー然り、報道然り、指導者然り、主催者然りである。

確かに゛階級差別゛は、あってはならない。人間には皆、平等に機会を与えられなくてはならぬ。誰であろうと国民の間で特権は認めるべきではないだろう。だが、戦前の我が国に明白に存在していた人としての倫理規範、矜持、自律の心、等々、先祖から継承させて来た我々共同体文化のコア=武士的アイデンティティーを破壊してまで、社会心理学的更地の不毛の荒野を現出させなければならない如何なる理由があった、と言うのであろう?

この稿、一応、了